ある日の夕方、夕焼けがキレイでビルの屋上から空を見ていたのです。
そうしたら、突然、ナイフで横一文字に切り目を入れたように空が裂けて、黒い泥のような粘々した塊がニュルッと絞り出されて落ちてきたのです。まるで黒い練り歯磨き粉のようなのが。
その塊の落ちた下は阿鼻叫喚、そして爆発して大火事になっています。
「ひー、何なんだ、これは!!」
と、突然僕の真上の空も裂けて、そのニュルニュルが今にも落ちてきそうになっていた。
僕の頭の上ほんの二メートルくらい、空が切り取られていて、黒い塊が顔を出している。
空の裂け目の向こう側には漆黒の夜空が広がり、それと共に見たこともない凄い数の星がまるで銀河のように光り輝いている。その凄まじいばかりの美しさに一時茫然となる。
本当の夜空をみたような気がした。
気を取られている間に、横で見ていた僕の伴侶に巨大なニュルニュルが落ちてきて「ジューッ!!」と凄い音と水蒸気の水煙が上がる。彼は真っ黒焦げになっている。
「しまった、遅かった」と彼を安全な方向へと突き飛ばす。僕は慌ててニュルニュルを踏んでしまう。音を立てて溶けるサンダル。僕も肩と右足を火傷してしまう。
彼はまだ息があったので、家に抱きかかえて運ぶ。ありったけの氷をバスタブに突っ込んで水を張り、彼をそっと横たえる。
彼は何か大丈夫な言葉を発していたので、ベッドに移して消毒を施して水分を与え、彼はうとうと眠りに就く。
「くそっ、あれは一体何だったんだろう・・」ともう一度冷静になって考えた。切れ間から垣間見えた真っ黒の空は今までに見たことがないくらい不気味だった。しかし、恐怖感と同じくらい美しかった。
「あれは本当に現実だったんだろうか、もう一度見てみたい。」
そう思うと僕はさっきのビルに向かって駆け出していた。
そこには、塊を出し切った空の切れ目が忽然と浮かんでいた。よく見ると新宿全体に切れ目が、まるで海を飛ぶカモメの群れのようにぽっかりと無数に浮かんでいた。日没間近の空だから、目を凝らさないとよく見えないが。
街の人は火事の後片付けで追われている。口々に「空襲だ、また来るから気をつけろ」と叫んでいる人もいる。僕の見たものは彼らは気付いていないらしい。
空の裂け目はジャンプすれば届きそうだ。ちょうど学校のバスケットゴールくらいの高さしかない。
僕は屋上の階段室の隅に立てかけてある梯子の事を思い出した。大家さんが台風の後、アンテナを調整するときにつかっていたあれがあったはずだ。
僕はその梯子を空の裂け目にたて掛けて登れないか試してみることにした。梯子が立てかけられるかなんて想像もつかないけれど、今起こっている事すらすでに想像の域を超えているのだから。
そっと梯子を空の切れ目にたて掛けてみる。なんと、梯子がもたれ掛かった。僕はそっと登ってみる。
ぶよぶよ、いやな揺れ方がする。空って柔らかいのか。そんな事を考えながら登ると切れ目が口をあけている場所まで来た。中を覗いてみる。
こんなに美しいものは見たことがない。プラネタリウムの星とはわけが違う。崇高で偉大で、畏れおおい、近寄りがたい美しさ。
いつまでも見ていたいと思った瞬間、梯子が外れて僕は空の切れ目にぶら下がってしまた。そうすると柔らかい裂け目がビビーッと鈍い音を出して裂け、僕はその中に落ちてしまった!
***
気が付いたら学校にいる。見慣れた制服、床の板に塗らされるコールタールとオイルの独特の臭い。
よく見ると僕の卒業した中学じゃん!!いやいや、俺34歳だし・・。と鏡を探してトイレに辿り着く。
「ヒゲがない・・・。若いし・・。」愕然とする僕。これがタイムスリップなのか。まずは冷静にならないといけない。誰もいないので今度はダメ押し、自分のパンツの中を覗く。
「!!!」
なるほど、中学生に戻っている。なんせ色が違う・・。少なくとも14歳以下、ということは20年遡ったわけか。
映画だと、大抵こういう場合は工夫して14歳になり済まして、帰りの出口を探す一方で凄い運動能力を発揮したりして、好みの子を射止めたりしてるもんだけど・・。
ちょっくら合唱コンクールでジャズの前奏でも弾いちゃおうかしら。なーんて俗な事を考えていると、先生が探しに来た。今は体育の授業中だったみたい。
力を半分で上手くこなしてお昼休み。なんせみんな若い。みんなでファミコンの話してるし!懐かしいすぎ。
いやいや、出口を探さないと。今夜もお店があるし。と思いきって中学校を出てしばらく歩く。
待てよ、考えてみたら中学校は京都市内で、僕の戻りたいのは新宿区。あー、こりゃダメだ。と頭を抱える。こればっかりはどうにもならない。
しばらく働くか、親に会おうか、いやいや、一人で解決しないといけない。「西木屋町のあの売り專の店はまだあったっけ・・?新幹線の運賃だけ・・」なんて考えても埒があかない。
気付くと無性に喉が渇いていた。考えれば八月。体育の授業の後、何にも口にしていない。
と、そばにいかにも昔からある喫茶店があったので思わず飛び込む。
白髪のおじいさんが営む喫茶店は、いかにもSFっぽい展開だな、と思った。そういこの爺さん、ちょっと松本零士に似ている。
その爺さん、こっちを見もせずに「珈琲でいいかい?」と聞く。僕はとにかく冷たいものが飲みたかったので「お願いします」と答える。残念ながらこの店にはお冷やはなさそうだが。
爺さん、カウンター越しにこちらを見ながら、「どうだい、久しぶりの中学校は。」と聞く。やっぱSFじゃん、と思いながらも、もしかしたら喫茶店に来るような中学生だから、まともに学校行っていないと思われているのではあるまいか。そうも見える。
僕は「いや、楽しいですよ。それより喉がカラカラなんで、何か下さいよ」と答える。その時爺さんがこちらを見て、サイフォンから珈琲を注ぐ。
「!!」
あの空の切れ目からひねり出された溶岩と同じモノが、サイフォンからコーヒーカップに注がれる。熱で割れるコーヒーカップ。カウンターに煙が上がる。
驚きのあまりに声にならない僕を見ながら爺さんはニヤリと笑い、そしれておもむろに話し出した。
爺さん:「若いころに戻りたいって思うていただろう。戻してやったんだ、しっかり勉強して京大でも同志社でもいくがよいわ。」
僕:「僕、キヌギヌに戻りたいんです!!もう一回人生やり直せてもあの店がいい。ねえ、お爺さん、いま本当にそう思っています」
爺さん:「なら、もう一回勉強でも旅行でもして、もう一度出せばよいじゃろう。このままいくと15年したらまたあの物件が空く事になっておる」とお爺さんは分厚い辞書のような年表らしきものをパラパラめくる。ちょうど真ん中あたりだ。
僕:「あの、それ見せてもらえませんか・・。もしかして未来まで乗っているんじゃ・・」
(そう、最近株とか為替に興味があったりするのだ。)
爺さん:「バカモン!お前が切り開かんでどうするんじゃ!」
その瞬間、爺さんと僕の間の空気が裂けて広がり、再び漆黒の夜空と星が見えたと思うとまたそこに落っこちた。
そうして、氷水のバスタブに落っこちた。
***
そうして眼が覚めた。
ああ、戻ってきてよかった。お店頑張ろう。爺さん、偉大な夢をありがとう!
(でも、あのとき覗きこんだ自分の股間は夢ながらにリアルだったと思う。)