僕がお店を始めた辺りのお話。
ふと思い出しました。暇つぶしになれば(笑)
2005年のお正月、前職である青山の大きなインテリアの会社が、さらに大手企業に売却される事になりました。急な事業拡大に、資金繰りが悪化したらしいのです。
いわば青天の霹靂。不採算事業は整理され、僕が継続して働けるのか、それともクビになるかもまだ分からない。その前に予想される山のような整理業務。
既にかなりのハードワークでして、代官山にバーのようなクラブのような飲食店をオープンさせたばかりで泊まり込みが続き、精神的にもかなり参っていました。
会社の運営が怪しいのは秋頃から噂が流れ、その表れとして店の備品なんかを買うために決済を求めてもなかなか下りなかったりしていました。
仕方ないので家からそれぞれ持ち寄ったり。オイルサーディンの空き缶の灰皿だったり、不揃いのグラスだったり。
そうそう、その代官山のお店がとても面白かったのです。
元々潰れちゃった地下のハンバーガーレストラン(地下でハンバーガーレストランってのがちょっと、、)の跡地を、持て余したオーナーが使ってくれとの依頼で工事費もないので巨大ハンマーで穴を開けて瓦礫のまま見せる。廃墟の中に本体の家具屋から持ってきた大きな古いシャンデリアやソファを配し、継接ぎのビロードのカーテンにローソクを焚く。
手作りにしては中々荘厳でユニークな雰囲気でした。
沢山のミュージシャンや、アーティスト、映画関係者、モデルの山口小夜子さんも生前、いらして下さいました。
ただ、余りにも労働環境が悪く、僕は会社売却のニュースを聞くと、直談判してさっさと辞めてしまいました。
管理職の身分で、です。(汗)
辛くて逃げ出したのが本音なのです。自分の健康も不安なのに、お店の残務整理と、(当然クローズ対象でした)それに元々立ち上げた代々木上原の店舗も関わっていたので、体力的に持たない予感がしたのでした。
辞めてしばらく、旧知のヴァイオリン屋さんのビラ配りなんかをさせて頂きながら、文字通り毎日腐っていました。
だって、今まで戦友みたいに働いていた部下や仲間を裏切って、自分だけ楽になって申し訳なくって。
それに、やりたい事もないし。また勤めに出るかななんて考えながら。そう、まだ29歳でした。
半分鬱みたいになりながら、ビラ配りをする以外は家で起きるでも寝るでもない、海に漂うクラゲのように呆然と生活していました。
そんなある日、ネットをいじっていると美輪明宏さんの書いた「新宿」にまつわる文書を見つけました。
新宿をテーマに、沢山の人がエッセイを寄せていました。新宿に関係のある、何かのサイトでした。
読むうちにどんどん引き込まれました。とても面白く、エネルギッシュなお話。
要約すると、戦後の新宿は世界三大歓楽街だったという話。パリのサンジェルマンデプレ、ニューヨークのグリニッジビレッジ、そして東京は新宿。
新宿の界隈には沢山の古く狭いバーが軒を連ねて、そこには文化があった。そして、金持ちも学生も売春婦も文化人も入り乱れたサロンが形成され、人々が毎夜、熱く語っていたという。
美輪明宏さんが言うには、土地には固有のパワーがあって、それは何にも勝るモノらしい。新宿にはそれがまだ残っているのに、どんどん無機質なビルが立ち並び、安酒と安易な会話とカラオケが氾濫する。
新宿のパワーが消え失せないうちに、若い人があの頃のような文化の灯をともさないと、そのうちコンクリートの塊に成り下がってしまう。
文化と文明は違うの。今の若い人に、それを伝えたいのです、と。
!!!
何度も繰り返し読み、感じた事のないエネルギーが体の奥から湧き出して、僕の体を駆け巡る。
僕の向いている事、したかった事、すべき事。その三つともが、少しだけど全て含まれているじゃんか。
その翌日、ヴァイオリン屋さんの親方に「僕、新宿でバーやってみたいんです!」と告げた。そうしたら親方、早く企画書を書いてこいと仰る。
ん、、。ええ?
イラストと夢の溢れた、まだ見ぬ僕のお城を書きなぐり、数字の裏付けを添えて徹夜で40枚くらい書き上げる。興奮して翌日持って行くと、長い時間をかけてじっと目を通される。
そして、直ぐに希望の金額を貸して下さったのです。
僕がビビって呆然と立っていると、
「バカっ!その金でタクシー飛び乗って新宿の不動産屋に向かえ!」
と怒鳴られました。
そうなんです、動かなきゃならないのです。
半泣きで向かった不動産屋は奇しくも今の店の商店街を入る角の大通り沿いの右手、今はガラス張りのバーがある場所にあった小さな不動産屋さん。
小さなお婆さんがちょこんと座っておられました。正直言ってかなり不安です、、。
まあ、不動産屋さんには10軒は回る覚悟だったので半ば諦めつつ「バーがやりたいけど予算がありません。自分で工事しますので」と簡潔に告げると、お婆さんがよっこらしょ、と腰を上げてファイルを開いた。
中々動きの早い婆さま。
三軒の資料を出してこられて、そのうち2件は居抜きのバー物件。
さっそく見に行きました。
お墓が見える屋根裏部屋付きのバーと、居抜きの大理石風のダサいスナック跡地。
まあ、有りといえばありだけど、、。値段がべらぼうに高い。
お婆さんは、「3つ目はちょっと面白いよ、、手がかかるけどねぇ、、」と、笑みを浮かべつつ意味深な事を言う。
黙ってついて行くと、並木の向かいに建つ三角の薄いビル。
ひょいひょいと階段を登る婆さま。
アルミのドアの鍵を開けると、、もう何の文句もない事務所物件。
丁度いい狭さと景色、駅からの距離。家賃は6万円。
ここで働く自分の姿が見えた。婆さま、ワザとここを最後に見せたな(笑)
翌日に契約を済ませ、直ぐに準備を開始した。
友達と京都、神戸に買い付けに行く。荷物を満載にして東名から京都に戻る。自己資金と借りたお金を全額使って勝負に出る。
時は新宿御苑のお花見の頃。仲間の参加する200人位の大きなグループに混ぜてもらい、ヴァイオリンを弾かせて貰い、友達とビラを配らせて貰ったりもした。mixiにも毎日開店日記を書き、工事や許認可申請もしながら、久しぶりのピアノも練習した。
なんせ1人でずっとやって行かなきゃいけないし、お金もあまり残ってない。あらゆる状況を想定して、1日でも長く続くように色んな角度からシュミレートする。
まるで天守閣に立てこもる最後の生き残りの武士のような気分。
そんなこんなで無事オープンして、悩みながらも何とか順調に毎日を過ごしておりました。借金も返済が終わり、益々身軽になる。
やりたい事をどんどん実験して、口コミでお客さんも増え、自分の方向性に根拠と自信も持てた。
目まぐるしく過ぎていく毎日の中、ふと美輪さんのエッセイを思い出した。
僕の店はいつしか彼の時代のサロンのようになっていて、毎晩個性のある人で溢れていた。
歌舞伎役者さんが名場面を演じたり、イラストレーターと絵描きが似顔絵を描き合ったり、手品師にダンサーにストリッパー、もちろん生の音楽も溢れている。
もしあの時、美輪さんのエッセイを読んでなかったらこうはなっていなかった。是非お礼のお手紙を書こう、と。
筆不精の極め付けみたいな僕でしたが、彼の髪の色と同じイエローのアルバムを用意し、よく撮れた店内の写真を貼り付け、綺麗な紙を貼ってコメントを付けた。
店での演奏や、活けた花々、シャンデリアや並木の緑。
そして、最後のページに自分が燕尾服の正装で立つ写真を貼り(わざわざ作った)携帯番号と名刺、地図、そして一文を添えた。
「いつか僕の店にお越し下さる時には、必ずこの服装でお出迎え致します。今の若者はあなたの頃と、ちっとも変わっていませんよ」
***
更に一年くらい過ぎたある夜。
僕の携帯に知らない番号から着信が鳴った。
誰かしらと思いながらも出ると、エコーのかかったような声で「・・です」と名乗る。
変な声の人、、。
銭湯から電話してんじゃないかってくらいの残響で、よく聞こえない。
「はい?どちらさまですか?」
「美輪です。前に素敵なお手紙下さってたでしょう?」続く